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05府中宿~09小仏宿

[ 2025/2/24~ ]

■05府中宿(東京都府中市)


東府中駅前を過ぎ京王線の踏切を渡ると、しばらくは無理やり造られたと思える狭い歩道を歩きます。
歩行者がすれ違うこともできない狭さが続きますが、こんな道路の沿道でも府中駅に近づくにつれてマンションが増えていきます。 この狭さなら歩道の形にせず、ラインが引いてあるだけのほうが歩きやすいように思いますが、”目に見える形”にすることが大事なようです。
八幡宿交差点を過ぎると道路が広くなり、歩道も十分な広さになります。 都市計画幅まで広げられ電線は地中化され電柱もなくなり、マンションが多いためか看板が少ないので、落ち着いた通りです。



[ 府中 狭い歩道(2025 02 24)]


人通りが増えてくると、大國魂神社前のケヤキ並木との交差点です。 ケヤキ並木は1000年近い歴史があるとも言われる「馬場大門のケヤキ並木」で、約600mの並木は天然記念物に指定されています。
この交差点は大國魂神社への参拝者に加えて、けやき並木の横には大規模な商業施設があるので、多くの人で賑わっていました。 少し南には東京競馬場があるので、レースの開催日はさらに多くの人が集っているかもしれません。



[ 府中 ケヤキ並木(2025 02 24)]


大國魂神社前を過ぎ次の交差点は、高札場があったところです。
街道を挟み反対側には1860年創業した蔵造りの酒屋があり、この一角だけ昔の街道らしい雰囲気があります。
高札場の交差点を過ぎると、道は狭くなりどこにでもある特徴のない沿道風景になります。
しばらく進むと弁慶坂といわれる緩い下り坂になりますが、すぐに上り坂になり京王線の踏切が見えてきます。



[ 府中 高札場(2025 02 24)]


■06日野宿(東京都日野市)



[ 常夜燈(2025 03 20)]


府中宿を出て新府中街道との交差点に秋葉大権現常夜燈があります。 街道沿いにあった本宿村は多摩川の河岸段丘上にあり水が乏しく火災に苦しめられていたため、火災消除の御利益がある遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をしてもらい、1792年に常夜燈を設けました。 その後、毎夕刻に無事を祈り常夜燈を点し続けてきましたが、太平洋戦争中の灯火管制により廃止に。
地域の歴史が詰まった常夜燈ですが、道路わきの狭い土地に追いやられていました。



[ 多摩モノレール(2025 3 20)]


府中宿から日野宿への甲州街道は都道になったり国道になったりですが、歩道が狭く人と人がすれ違うのがやっとで、自転車が来ると大変です。 かといって交通量の多い車道を自転車が走るのは見ていても怖いものがあります。
立川市に入り日野橋交差点を過ぎると、多摩川を渡していた日野の渡し跡があります。 1926(S1)年に下流側に日野橋が架けられると渡しは廃止され、今は下水処理場の横に石碑があるだけです。 平成に入り上流側に立日橋が架けられ、自動車のほかに2000(H12)年からはモノレールが多摩川を渡るようになりました。
渡船で多摩川を渡っていた時代から80年足らずで、モノレールで渡れるようになるとは誰が想像できたでしょうか。



[ 日野宿本陣(2025 03 20)]


日野宿は都内で本陣だった建物が唯一残されています。 先代の本陣は江戸末期の火災により焼失したため1864年に再建された建物で、明治期に上段の間など一部が移築されましたが今日まで保存されてきました。 大黒柱は40cm以上の太さがあり黒光りしています。 庭の池は埋められ、周りは住宅やマンションがギリギリに建てられているので、閉じ込められた感じがします。
幕末の当家主人は土方歳三の義理の兄にあたり、歳三が江戸に戻った時はここを訪れていたそうです。 ルックスの良い土方歳三の里帰りは、SNSの発達している現代であれば大騒ぎになること必至です。



[ 日野自動車(2025 03 20)]


旧・甲州街道は中央線日野駅で分断されているので、駅の下にあるガードを通り中央高速をくぐり抜けます。 この道は「大坂上通り」と名付けられた日野駅付近から多摩川の段丘を上る坂道で、高さのある擁壁の上に建てられた住宅が上方に見えちょっと怖い感じがします。
旧・甲州街道を進むと右手に日野自動車の本社と工場があり、バス停を3つ通り過ぎる広さがあります。 そのほかにコニカミノルタなどの大きな工場があり、昔は畑が広がる風景だったろうと勝手に思いを巡らせました。
近くにトヨタならぬ「豊田駅(とよだえき)」があり、何とも言えない取り合わせです。



■07八王子宿(東京都八王子市)



[ 大和田橋の弾痕(2025 03 20)]


八王子宿に入る直前で大和田橋で浅川を渡ります。 大和田橋は太平洋戦争中の米軍による焼夷弾の弾痕が残され、ガラス張りにして見学できるようになっていますが、残念ながらガラスに水滴がついて中が全く見えませんでした。 前日に雪が降ったのでその影響だったのでしょうか。そのほかの弾痕は歩道のブロックの色を変えて位置を示しています。



[ 新町一里塚(2025 03 20)]


大和田橋を渡り右折し少し行くと旧・甲州街道が残されている区間があります。 広くはない道の両側に住宅が立ち並んでいますが、緩やかに曲がる道筋は昔のままです。 一方通行にして狭いながらも両側に歩道を設けてあり、歩行者に思いやりのある道です。
街道が直角に曲がる手前の公園に一里塚跡の石碑があります。 江戸から12里の新町一里塚の跡ですが、明治の大火で植えられていた大榎が失われました。 隣の神社に八王子出身の力士八光山権五郎の石造が立っていて、石碑のこの場所からでも目を引きます。



[ 八王子市街(2025 03 20)]


八王子宿を通る甲州街道は国道20号になり、八王子駅入口交差点を中心に店舗や飲食店が立ち並んでいます。 太平洋戦争の空襲により市街地の80%が焼失しているので、古い建物は残っていません。街道沿いは 低層の専門商店が並び歩道の上にアーケードが設けられていましたが、商業の中心が駅前に動き始めマンションなどのビル建設が進み、アーケードは歯が抜けたように残るだけです。 今もマンションの建設が行われているので、ポツポツと残っている低層の建物もいずれ建替えが進み、ビルの壁面が連続する街並みになりそうです。
そんな建替えが進むビルの一つに松任谷由実さんの実家である荒井呉服店があり、1階で呉服店が続けられ上層階はマンションになっていました。
甲州街道沿いは安くておいしそうなランチを提供しているお店が多い感じです。 歩いているとメープルシロップの甘い香りが漂ってきたので、足を向けるとメロンパン屋さんで思わずパンを買ってしまいました。 外はカリカリ、中ふわふわの焼きたてのメープルパンでした。メロンパンではないですね。




[ イチョウ並木(2025 03 20)]


追分町交差点を過ぎると、国道20号の両側にイチョウ並木が高尾駅前まで延々と続きます。 大正天皇が亡くなり1927(S2)年に多摩御陵が完成し、1929(S4)年の道路改修の際に宮内省が植えたイチョウです。 植えた当時は2mほどだった樹高が現在では15mに達する木もあるそうです。
訪れた3月は全く葉がなく、枝しかないさみしい立木にしか見えませんでしたが、紅葉の頃はさぞ素晴らしい景色になると思います。 でも、銀杏が落ちる頃はどうなのでしょう、特有のにおいが気になりそうですが。



[ 100年記念(2025 03 20)]


日野から大和田橋にかけての国道20号にもイチョウ並木があり、イチョウの木を囲う歩道のブロックに『直轄事業100年記念』と記されていました。 1873(M6)年に河港道路修築規則が制定されて国と地方の費用負担が定められ、この時点から国の直轄事業が100年を迎えイチョウが植えられたのでしょうか? 一般の人にとっては訳の分からない記念です。



[ 旧・甲州街道(2025 03 20)]


多摩御陵入口から高尾駅前の間は、旧・甲州街道が残っている区間があります。 広い道ではないので歩行者のために片側のブロックの敷き並べ方を変えて、さりげなく歩車分離を誘導しています。
広い敷地を持つ住宅がところどころにあり、落ち着いた雰囲気の住宅地です。 東京都といえどもここまで来ると、静かさがあります。


■08駒木野宿(東京都八王子市)



[ 小仏関所跡(2025 04 12)]


高尾駅前を通る国道20号を進み、西浅川交差点を右折し緩やかな坂道を上ります。 まだ両側に住宅が多くありますが地区の掲示板には「イノシシ出没注意!!」の張り紙がありました。 そんな住宅地中に小仏関所跡があります。 石碑と案内板があるだけで建物は明治2年に取り壊され、跡地は公園のような広場になっています。 もともとは小仏にあった関所が1580(天正8)年に駒木野に移されましたが、その後も小仏関所と呼ばれていました。



[ 小仏関所跡前(2025 04 12)]


関所の前の甲州街道は狭い道ですがバス路線になっていて、休日は高尾山などを巡るハイキング客のために高尾駅からのバスが台数を増やして走っています。 国道20号になった甲州街道は拡げられて昔の面影が残っていないところがほとんどでしたが、この辺から昔の街道が想像できる道が増えてきます。



[ 旅籠と八王子JCT(2025 04 12)]


駒木野宿を過ぎると中央高速道と圏央道が交差する八王子ジャンクションが見え始めます。 山に挟まれたところなので、高速道路は高い位置で交差し空の中を通過しています。 八王子ジャンクションの下には昔の旅籠が残っていて、軒下には社寺参詣の際に掲げられた「講中札」がずらりと並んでいます。圏央道の近代的な橋と古の街道が交差する時間を超越した空間です。
中央高速道とJR中央線は甲州街道にほぼ並行して通っていますが、国道20号は高尾山の南側を大きく迂回してします。小仏峠の下にトンネルを掘らずに済むルートが選ばれたようです。



[ 講中札(2025 04 12)]


旅籠の 近くには、太平洋戦争中に疎開する学童が乗った列車が米軍機の銃撃を受け、多くの学童がなくなった湯の花トンネル列車銃撃の慰霊碑があります。



[ JR中央線と八王子JCT(2025 04 12)]


■09小仏宿(東京都八王子市)



[ 小仏宿(2025 04 12)]


JR中央線のレンガでできたガードを越えると小仏宿ですが、中央高速道とJR中央線に挟まれた狭い土地にあり、片側に住宅がまばらに建っているだけです。 明治天皇の小休所の石碑が個人宅の庭にポツンとありますが、宿場だった面影はありません。



[ 排煙設備跡(2025 04 12)]


小仏宿跡の横にはJR中央線の小仏トンネルの坑口があり、その上に奇妙な形をしたコンクリートの残骸が街道から見えます。 後で調べてみたら蒸気機関車が走っていた頃の排煙設備の基礎だそうで、ここから送風機でトンネル内に風を送り煙を排出していたそうです。 小仏トンネルは2574mもあるので、トンネル内に滞留する煙への対策が必要だったのでしょう。
小仏宿を出るとJR高尾駅からの路線バスの終点があり、ハイキング客を乗せたバスが空車で折り返していきます。 バス停からは工事用の大きな構台が中央高速道の横に見え、小仏トンネルの渋滞対策としてトンネルの増設工事が行われていました。



[ 都道浅川相模湖線(2025 04 12)]


ヘアピンカーブを過ぎて少し行くと舗装された道は終わり林道のような道になりますが、小仏峠まで続くこの道は「浅川相模湖線」という都道です。 都の道路台帳を見ると最も狭い道幅は1.00mとなっています。
小仏峠は一休みできる広場があり、高尾山、景信山、相模湖へ向かう道の分岐になっています。 ここから甲州街道の案内は相模原市の標柱を見ながら進みます。小仏峠から相模湖方面へは下りの山道で体力的には楽ですが、トレイルランニングの人が後ろから走ってくると、狭い道で突き飛ばされるのではとヒヤヒヤします。



[ 小仏峠(2025 04 12)]




<参考資料>